切望せよ
切望せよ。奮闘せよ。
心の本性を悟りたいなら。最高の悟りを得たいのなら。真に神を見神したいなら。
そういう思いを持っていても、すぐにこの世のマーヤーにはまって、幻影に惑わされてしまう。
だから日々修行に打ち込む。切望し続け、求め続ける。そうでなければ手に入れることはできない。
この人生はプライドを満たすためにあるのか、
美味しいものを食べるためににあるのか、
快楽に流れ様々な欲望をかなえるためにあるのか、
他者に不満や怒りをぶつけるためにあるのか、
利得、地位や名誉を得るためにあるのか、そんなわけはない。
神を悟るために真理を悟るためにあるのだ。
ならば、誠実に神のみを求め真理のみを求め続けよ。
そうしてのみ神は姿を現してくださる。
邪心を捨てて純粋に聖なるものを求め続けよ。
この世の無常なのもを求めて何の意味があろうか。
人生を神に捧げ、他者の幸せのために捧げ、修行に捧げる。
なんと幸せな人生であろうか。
この世にアラ探しに来たのではない
人は他人の欠点を非難し続けていると、いつの間にかそれらの欠点に染まってしまう。
私たちはこの世にアラ探しに来たのではない。ただ学ぶために来たのだ。
私たちは常に自らに、自分たちは何を学んだか、問わなくてはならない。
そしてできることなら、他人を愛しなさい。そうすればあなた方は、平和と幸福に恵まれるであろう。
スワミ・プレーマナンダ
ヨーガスクール・カイラス発行 『松川慧照エッセイ集8』より
自己を打破る
他人には優しく、自分には厳しくあらねばならない。
人にはいつも寛大な心で向き合い、自分がどうであるかは厳しく正しくみなければならない。
放っておくとエゴや甘えが出て、悪き習性によって悪きカルマを生じさせる。同じことを何度も繰り返してしまう。
断ち切らなければならない。私は自己の汚れた心を、弱い心を、怠惰な心を、暗い心を打破りたい。自己を超えて行きたい。そのために向上心を持ちひたすら努力しよう。自己の限界を超えるのだ。
心には、精神には限界はない。
人生は短い。死は必ずやって来る。だから気づいている今、最大限に努力しなければもったいない。
今弱いなら強くなればいい、汚れているなら純粋になればいい、狭い心なら広い心になればいい。
その悪き自分は本来的なものではなく、過去の経験からくつられたものだから。
自己の心は自分で変えることができるのだから。
与える側になる
『与える側の人間になりなさい』
聖者達はこのように教えてくださる。
これは実践が大切でとても重要な教えだ。
与える側の人間である。常に。
そのためには常に他者の利益を考え、自分が他者に何を与えられるだろうかと考えて生きる。
そうすれば、他者に何かを与える機会が来た時に喜んで与えることができるだろう。
エゴは己の貪りにより与えることを躊躇するが、与える実践によってのみ自己は真に幸福になれるのだとエゴをなだめて実践し続ける。そのうち与えることが喜びになり、自然に与えれるようになっていく。
自分のものなどもともと何もない。私の物もこの体もすべて神によって与えらえたもの。すなわち神のものであり、一切衆生のもの。それは与えるために与えられたものなのだから。
常に心にこの思いを保ち、他者の利益となれますように。
苦難は神の祝福
苦難は神の祝福である。
人生で起こることはすべて神愛だが、苦しみが大きいことほど大きな愛あり大いなる祝福である。
試練によってその人を大きく成長させようとしている。試練が大きければ大きいほど、大きく成長出来るのだから喜んで苦難にぶち当たればいい。どの道、苦難は避けれないのだから。雄々しく立ち向かえばいい。逃げていては何もえられない。
このように思えるかどうかは、その人の心が聖なるものや神に向かっているか、真理のダルマや悟り向かっているかによる。
我欲に縛られて生きている人にとっては苦難はただ苦しいだけ。
聖なる教えを学び、日々修行して生きていると苦しくても喜び。
苦しみに出会っている多くの人が、苦しみから解放されて幸せになってほしい。
でもそれ以上に、みんながそれぞれの苦しみによって成長してほしい。
そして真の幸福へと向かってほしい。
そのためにも日々の努力を倍化して修行しよう。