新鮮な今このとき
過去は過ぎ去ってしまいもうない、未来はまだ来ていない。なのになぜ多くの人は多くの時間を過去の栄光や後悔、未来への期待や恐怖に使っている。過去は腐った果実、未来はまだ熟していない果実、どちらもマズいだけ・・・。
新鮮な今を味わわないともったいない。いまここにすべてがある・・・。
私もこれを知り、努力つつも過去や未来を思うことに多くの時を費やしてしまっていた。
過去を思うとき、終わったことを思うことに全くなんの意味もないことを考える。人はそこにいろんな意味をたせるだろうが、本当は意味がない、どころか無駄である。後悔があるのであれば、懺悔して二度と同じ過ちは犯さないと誓ったらあとはきれいさっぱり忘れて今この瞬間に集中する。エネルギーを上げて善き思いでやるべきことをやる。
未来を恐れたり心配したりするとき、心配しようがすまいが起こることは起こるし、起こらないことは起こらないのだと思いだす。近い未来は現時点でのそれぞれのカルマによって決まっているので考えてもしょうがない。ただ今喜びをもって善き行いをして生きていればそのカルマの積み重ねによって先の未来は確実によいものになる。しかし悪いことが起きようが良いことが起きようがそれらはすべて神の愛である。私達を神の懐へと導いてくれる最短の道をいつも示してくれている。だがこれも過去や未来にとらわれていては気づくことが出来ず進むことができない。
どうかいつも今この瞬間を100パーセントの集中で全力で生きれますように。
過去や未来を思う心の習性を断ち切り、まっさらな心で今を全力で生きれますように。
純粋な信
私たちが失ってしまったもの、神への愛、聖なるものへの信。
これは一番大切なものだ。それに気づけたものは幸せ、神への信愛(バクティ)を深めていけばいい。
常に神に心を合わせ、神に対して信愛を持ち、すべてを神の愛と観て生きる。
そのためにはエゴを放棄し、利他の思いをいつも持ち、自分の中の悪を滅し、善を行い純粋に生きる。
少しづつでもそうやって純粋な生き方ができれば、幸せだ。そしてそれは真の自由と至福へと向かう道である。
その道はいばらの道でも、その最高の道を進めるという喜びと神への信愛があれば喜びの道となる。自分の心次第だ。
世俗の低いものに固定されがちは心を至高なる神へ向ける。そして神はすべての衆生を愛しておられるので、すべての衆生への慈悲、慈愛をもつ。神への愛と衆生への愛、そして自己の放棄、どれも欠けてはならない聖なる生き方、この生き方に純粋な信を持てることは幸せ。
あとは神の導きのままに進んで行こう。
断ち切って 繋ぎとめる
怒りが出た時、不満が出た時、欲望が出た時、執着が出た時・・・
全てすぐに断ち切って、心を聖なるものに結び付ける。愛や慈悲、そして神にしっかりと結びつける。
断ち切るだけでは力が弱い。神に心を結びつけることによって、恩寵によってエゴの低い修正を真に手放すことができる。
私たちの本性は無条件の愛であり、純粋な至福、無限の光である。それは神と一致している。
だから神と一致していない時は本当の自分からズレているわけだ。
だからズレを修正するためにはいつも神だけをを心の中に置き、神だけに意識を合わせるのが最善の方法だと思う。
神というのがしっくりこない方は、真我や光、宇宙の根源、無条件の愛などに心を合わせてもいいのだが、私には神がより身近に感じられる。
エゴが出たとき、嫌悪や否定が出た時、それらをすぐに断ち切る必要がある。断ち切れずにそれらを表現してしまったりすると増々悪しきそれらの習性が強まるだけだ。自分自身を注意深く観察して断ち切るべきものを逃さないように、そしていつも神に自分自身を繋ぎとめるように・・。
悟りへの道は自分の努力と神の恩寵によって進むもの。
いつも神だけに心を繋ぎとめておおけば、神は引っ張ってくださる。
だから、どんな時も喜びと感謝で進もう。
幸せ
人生でやりたいことを見つけた人は幸せだ。
生きる意味を見つけた人は幸せだ。
人生の目的や目標を見つけた人は幸せだ。
人生ですべてをかけてでも為したいことに見つけた人は最高に幸せだ。
すべてをかけても進みたい道に出会えただけでそれはすごいこと、それが大変な道でも出会えただけで幸せなこと、それを思ったら努力も喜び、苦しみも喜び、全力でその道進まなけれもったいない。いつも今の自分の全力で道を進む。全力で頑張ることによって開けないものはない。全力で、全身全霊で生きれることは何と幸せなことか。ヨーガ修行、真理の道に出会えた私は幸せであり、日々の修練は本当にすべてが喜びであるという境地に連れて行ってくれる。私たちの内なる光の本質に到達させてくれる。すべての存在もまた純粋な愛と光であったと教えてくれる。真にその境地を確定できるまで全力で修行しよう。そして他の人の幸せに貢献したい。そのために日々精進、それが幸せ。
どれだけ
たとえばどれだけあなたが神の意志に反し、真理に反し、自己の良心に反して何かを得たとしても、その得たものはどれだけ永続するのだろうか。
たとえばそれがお金だとして、そのお金はどれだけで使い切ってしまうだろうか。
たとえば何かの快楽だとして、その快楽はどれだけ続くのだろうか。
たとえば勝利やプライドや名誉などの自己満足だどして、それにこだわっていられる時間はどれだけ続くのだろうか。
たとえば一時的な自己保全、自己の安らぎの確保だとして、その安らぎや安全はどれだけ続くのだろうか。
そしてそれらが終わりを迎えたとき、正気に戻ったあなたは、どれだけ後悔するのだろうか。
ならば今誠実な方法を取った方が良い。
後悔しない生き方をした方が良い。
一時的に苦しくても、大変でも、損に思えても、絶対そっちを取るべきだ。
わずかな時間で終わる喜びよりも、永遠の喜びに続く道を取った方が良い。
ヨーガスクールカイラス発行『松川慧照エッセイ集10』より