四無量心
心がすべて。
だから心の穢れを浄化し、改善する。
私たちのもともとの、透明で純粋で愛に満ちた光輝く心、永遠で無限の至福に満ちた心となるには、
まず日々心を神聖なのもへと変えるべく訓練する必要がある。この生きている一瞬一瞬に自らの心を監視する。
そこで拠り所となるのが四無量心だ。
慈・悲・喜・捨の四つの無量の心・・・
慈とは、他者が幸せになって欲しいと願う心
悲とは、他者が苦しみから解放されてほしいと願う心
喜とは、他者の幸福を心から喜ぶ心
捨とは、自分自身の苦楽等には一切頓着しない心
ここで素晴らしいのは無量というのは限定のない、限りない、無限、永遠というような意味あいをもつので、
これらの心をすべての存在に対していつも限りなく持つということになる。
全ての存在に対していつ何時も、一人ものけ者があってはいけない。
この四無量心をいつも忘れない。
そしてこの四無量心よって日常の様々な行為を行う、実践するのだ。
自分のことは捨てるわけだが、これが出来るようになった時には自分が本当に幸せになっているだろう。
いつか永遠の至福へと至るでしょう。
その日まで精進しましょう。こういった努力は真に価値のあることです!
幸せ
人生で一つだけ決まっていることがある。
それは必ず死ぬということ。
それはいつ来るかわからず、
そして仮に長生きしたとしても、数十年という短い時間しかない。
その残された短い時間を、どのように生きたいのか。
みんなの幸せのために生きたい。
あるいは、ただ純粋な主の道具となりたい。
そう思える人は、幸せな人だ。
そこに答えがある。
ヨーガスクール・カイラス発行『松川慧照エッセイ集』より
幸福の種
この世界で起こることはすべて「因」があっての「結果」です。
カルマの法則ですね。すべては自分の過去の想いと行いが報いとしてかえってきているわけです。
過去の善い行為が幸福に、悪い行為が不幸になってかえってきます。
なのにそれを忘れて“なぜ自分がこんな目にあうの?”と嘆いたり、人を批判したりしてしまいます。
自分が蒔いた「不幸の種」が芽を出しただけ、それで不幸の種が一つきえるのだから喜んで収穫すればいいのです。
実際不幸の種をいっぱいあったら心が安定せず重くなりがちなので、少しでも減ったほうがいいですよね。
そして今後不幸の種を蒔かないように意識することが大切です。
それから幸福の種をたくさん蒔きましょう。そうすればおのずと幸せになります。
幸せを願っているなら善い行いをする。人を幸せにする。それが確実です。
自分が幸せではないと文句ばかりいって人を批判していたらその人は不幸の種だけを蒔いているので不幸にしかなりえません。
だから人の幸せが私の幸せ。
与えることは受け取ること。
毎日出来る限り幸せの種を蒔いて、みんなが幸せになったらいいなあ。
そうなったら自分の幸せなんて願わなくても幸せなんです。
これが理想です。
無限の幸せ
他者の幸せが幸せ
他者の悦びが喜び
他者の苦しみが苦しみ
これが本当の私たち・・・
そこからだいぶズレてしまって
自分の幸せを一番に考えるように、自分のこと、自分の利益を一番に考えるようになってしまった。
もっとひどい場合自分のことしか考えないようになっている。
とんでもなく落ちてしまったものです。
そんな状態にようやく気づき、危機感をもち、自分のことは考えず他者の利益を他者の幸せをいつも考えるように意識し出した。
長い長い間の習性である“自分のことを第一に考える”を何としても超えて行こう。そうでなければ私が真に幸福にはなれないのだから・・・。
出来る限りこのように生きていると幸せや喜びが何とたくさんあることか、人の幸せが全部私の幸せ・・・
まさに幸せがいっぱいです。
自分の幸せは限りがあるが、みんなの幸せが自分の幸せになった時、幸せは無限にある。
その分苦しみもいっぱいあるが、人の苦しみをただ一緒になって苦しむのではなく、どうやったら苦しみがなくなるかを自分のことのように真剣に考える。他者の利益や幸福のために尽くす。そうしたらまた幸せが増えます。
そんなふうに生きていると神様からも守り助けて頂き、やっぱり幸せなわけです。
そして増々頑張れるし、本当もっと頑張りたい!
みんなのために。
花のように
決して過去に心を残さない。
一瞬前にも心を残さない。
常に新鮮な意識で世界をみる。
わざわざ過去を回想しない。リピートしない。
もちろん、自分の心を高みに向けて鼓舞するような、神聖な意識や教えは、ひたすらリピートする。
その新鮮な心の土台の上で。
その上で次に起こることはすべてお任せ。
この人生すべてが、神への供物。捧げもの。
野に咲く花のように。
風に吹かれても人に踏まれてもただ捧げものとしての人生を気高く生きる。
ヨーガスクール・カイラス発行 『松川慧照エッセイ集9』より