分離は幻想
“分離は幻想”と頭では理解していても、人々との分離感、真の自己との分離感、神との分離感を感じながら生きてきました。
その違和感、その不満が真我探求の道へ向かわせてくれたのですが・・・
分離感は間違っていた!やっぱり自ら分離に陥っていた!
神の愛に心を向けた時、いつもそれはそこにあり、すべてが愛であり恩寵であることがわかります。
孤独感もなく、いつも神とともにある喜びを持って生きることが出来ます。そしてそれ以外を求めることもなくなり、この世界でのエゴの様々な執着からも解放される・・・。
心が清らかで至福であれるように、いつも神の愛に心を向けていることを少しずつ覚えてきました。
今は見えているものを、また見失いそうになったらまたすぐ神の愛を思いだせますように、
どうかいつも神への愛と人々への愛を忘れませんように、
いつもエゴに打ち勝ちますように、
神の道具として、人々の役にたてますように、
修行に励みます。
まいた種が
まいた種が
芽となって出てきたのに
無明の眼には、それが敵に見える。
その芽を出すために頑張って種をまき、水をやってきたはずなのに
いざ芽が出てくると、それを芽と気づかず、敵とみる。
すべての現象を師と見るならば
この過ちは解消される。
すべては自らが、自らの成長のために
種をまき、出てきた芽。
それから逃げずに育て上げ
大きくなったら刈り取りなさい。
魂の成長という、真の収穫を得るのだ。
ヨーガスクール・カイラス発行 松川慧照エッセイ集⑦より
リハビリ
何があっても怒ることなく
何にもとらわれることなく
ただ皆の幸福を願い、
神への愛で心は満たされている。
それが本当の君なんだよ。
しかしなぜかそこから離れてしまった君のために
神はリハビリをほどこしてくださる。
心を動かされるような様々な現象は、
まさに神のリハビリだ。
聖典はそのためのテキスト。
テキストと片手に、よろよろと立ち上がって、
つらいリハビリに立ち向かおう。
主治医は「100パーセント治るから、心配は要らない」と
おっしゃってくださっているから。
ヨーガスクール・カイラス発行 松川慧照エッセイ集⑦より
純粋な見方
この世とあの世で経験する物事はすべて、自分自身の思いによって作り出された幻である。だが、こうした物事への執着が、さらに知覚を歪めるのだ。執着を捨てよ。そして、物事が実際に存在している通りに観察せよ。誰かに会うときはいつでも、あなたは、慈愛をたたえた微笑むようなまなざしで、彼らにお会いなさい。あなたは、人を傷つけようとする意志や欺こうとする思いをもつことを考えてもいけないのだ。他なるものを曼荼羅の諸尊が姿を変えて現れたものとみなすような、すなわち、あらゆる出来事を、“諸尊が演じるお芝居”であると解するような、あらゆる音をマントラやダラニとして聞くような、あらゆる思いを、空性を理解する智慧と一体化した大楽であるとみるような、純粋な見方を常に保持しなさい。これが密教的な生活の心髄である。 ―ダライラマ七世 ヨーガスクール・カイラス発行 松川慧照エッセイ集⑦より
こだわらない。とらわれない。聖を思う。
こだわらない。 とらわれない。 聖を思う。
こだわらない。
こだわらずに、一瞬一瞬、生まれ変わる。
一瞬前にもこだわらずに、一瞬一瞬最高のじぶんであろうとする。
これがまず第一になすべきことです。
そして、とらわれない。
過去に過ぎ去ったことには決してとらわれない。
別にこの世の楽しみを捨てろとはいわない。自然にもたらされた喜びは楽しんでかまわないが、
頭の中で、こうなりたいとか、こうでなきゃ嫌だというような、嫌悪にもとらわれない。
これが第二になすべきことです。
一瞬一瞬、こだわらずに最高の自分であろうとする。
そして、あらゆることにとらわれない。
そのうえで、あなたの好きな神・仏陀・聖者などのことをいつも考えて下さい。
まずはこれだけでも毎日続けたならば、とても自由で幸せになるでしょう。
松川慧照エッセイ集⑦『MEW』より