自由な心で
自由な心で生きる。もちろんそれは煩悩や欲望のままに生きることとは全く違う。
私たちは過去の経験から得た印象、定義づけなどによってたくさんの観念をもちそれらによって世界をみている。皆それぞれの
観念から世界をその人の一定の見方で見ている。その限定的な見方をやめて、世界を固定化するのをやめて、世界をすべてをありのままにみるとき、苦悩は消える。世界をありのままに見れる人、それは悟った人だ。
だが、自らのこころの習性から生じるすべての思い計らいを捨てて、こうなったらいいな、ああなったら嫌だなという思いもできるだけもたず、できれば、善い行いをし続け、絶えず清らかな思いでいる。この努力を続け、煩悩や欲望、心の習性を超えたとき、心は自由になり世界も自由になる。
今の不自由な限定された心の習性な長い間繰り返されたことにより強力なものとなっているかもしれない。だから利他心や慈悲心などを土台とした心で日々生きることを繰り返す(失敗してもやり続ける)ことにより、新しい善い習性を確固としたものにできるだろう。
すべては神の愛
この世界は神の愛でできています。人生で起こることはすべて神の愛です。
でもそうは思えないし感じられない、時々そう感じられることがあっても、心の穢れによって普段はなかなかそうではない。
それでもすべては神の愛だということは真実だ。
そう確信できるなら、すべてを神の愛としてみよう。意識的にそのようにみる。
人生に起こる出来事は神の愛、私の穢れを取り除き、神のもとに導いてくれる。
だから苦しむエゴを捨てて、神の愛を喜び感謝し、その愛の導きのままに進む。
すべてを神の愛とみて、神の愛に応えるために努力する。それは幸せな努力であり、いつか報われる努力だ。
努力が報われたとき、この世界は光輝き、すべてが神であるとわかるだろう。
いと深きヨーガ
私が幼い頃、家に『母と子のヨーガ』という本があり、載っていた白黒写真を見てアーサナをやっていた記憶がある。それが夢なのか本当の記憶かわからないが鮮明だ。なぜかアーユルヴェーダを勉強しヘナハウス沙羅の樹を始めた頃から悟りや解脱といったことに強く惹かれそれが人生の目標になった。それまでは幸せな環境にいながらも世界への嫌悪や虚無感を持って生きてきた。
目標が定まると瞑想や神智学や気功やスピリチュアル、エネルギーワークなど役に立つと感じたものを自分なりに体験してきた。
だがヨーガに関してはヨーガが解脱のためのものだとは知っていながらもあまりやる気にはならなかった。なぜなら過去生においてヨーガの修行をしてきた記憶がおぼろげにあるのに、今生まだ人間として無明をいきているのだから今回は今の時代の新しい方法を試した方がいいだろうと思ったからだ。それでも縁があり十数年前からヨーガもやりはじめた。
昨年から聖なる師の教えによりヨーガ修行の道を本格的に歩み始め、本当のヨーガの深さと素晴らしさが心に染みる日々を送っている。
真のヨーガの道という素晴らしい祝福を手にし、真のヨーガの実践が私を導いてくれていると確信する。全力で到達出来るとこまで行きたい。
ヨーガについて聖師・松川慧照先生が説明している分を以下に引用する。
「ヨーガ」という言葉には、「合一」や「コントロール」的な意味がある。そしてその真の意味は、人の本質である「真我」を悟り、そして宇宙の本質である「神我」を悟ることだ。そしてさらにいえば、この真我と神我が同一であると悟ることだ。
例えば大海の中に、海水の詰まったガラスビンがある。これが今の私たちの状態だ。このビンの中身の海水は周りの海水となんら変わりない。しかしこの透明なビンの壁があるがために、私たちは自己という区別を持ち、このガラスビンこそが「私」であると錯覚している。ヨーガというのはこのガラスビンを叩き割る。そうすると、中の海水は大海と一体化し、大海としての自己と宇宙の本質を悟るのだ。本来ヨーガの究極の目的はそういうことであり、そこにいたるための方法はすべて「ヨーガ」なのだ。 (ヨーガスクールカイラス発行「虹のヨーガ」より)
与える側の人間に
この世において常に、与える側の人間になりなさい。
すべてを与え、見返りを何も求めてはいけない。
愛を与え、人の助けとなり、奉仕をし、自分のできる限りのことは何でも与えなさい。しかし物々交換は避けなさい。
条件付けをしてはいけない。そうすれば何にも欺かれないだろう。
神がわれわれにするように、自己の報酬は他者に分け与えようではないか。
ヴィヴェーカナンダ
ヨーガスクールカイラス発行『松川慧照エッセイ集 菩薩の生きる道』より
観念を打ち砕く
心が過去や未来にうつろうのをやめたとしても、今この瞬間を考えていてもその心が観念づけであれば意味がない。しかしほとんどの人がこの世界の様々な観念に支配されて生きている。
この観念はというと、過去の経験からつくられたものであり経験にとらわれた見方にほかならない。よって過去からの習性によって現在を生きているだけであり、これではありのままに物事をみることができず、いまここにある素晴らしさを感じることは出来ない。
よって自分にとってマイナスな観念をすべて捨てる。というか一般的にはほとんどの観念が私達のものの見方を限定し狭い空間に押し込めているのでそれらに気づき捨てていく・・壊していく。観念はまさに心に壁をつくって心を狭くしている。そして心が狭いから苦しい。
心を広げること=観念を打ち砕くこと・・・これもまた全力で取り組まなければならない。偽りなき自由と喜びの境地へとたどり着くために。