自己を打破る
他人には優しく、自分には厳しくあらねばならない。
人にはいつも寛大な心で向き合い、自分がどうであるかは厳しく正しくみなければならない。
放っておくとエゴや甘えが出て、悪き習性によって悪きカルマを生じさせる。同じことを何度も繰り返してしまう。
断ち切らなければならない。私は自己の汚れた心を、弱い心を、怠惰な心を、暗い心を打破りたい。自己を超えて行きたい。そのために向上心を持ちひたすら努力しよう。自己の限界を超えるのだ。
心には、精神には限界はない。
人生は短い。死は必ずやって来る。だから気づいている今、最大限に努力しなければもったいない。
今弱いなら強くなればいい、汚れているなら純粋になればいい、狭い心なら広い心になればいい。
その悪き自分は本来的なものではなく、過去の経験からくつられたものだから。
自己の心は自分で変えることができるのだから。
与える側になる
『与える側の人間になりなさい』
聖者達はこのように教えてくださる。
これは実践が大切でとても重要な教えだ。
与える側の人間である。常に。
そのためには常に他者の利益を考え、自分が他者に何を与えられるだろうかと考えて生きる。
そうすれば、他者に何かを与える機会が来た時に喜んで与えることができるだろう。
エゴは己の貪りにより与えることを躊躇するが、与える実践によってのみ自己は真に幸福になれるのだとエゴをなだめて実践し続ける。そのうち与えることが喜びになり、自然に与えれるようになっていく。
自分のものなどもともと何もない。私の物もこの体もすべて神によって与えらえたもの。すなわち神のものであり、一切衆生のもの。それは与えるために与えられたものなのだから。
常に心にこの思いを保ち、他者の利益となれますように。
苦難は神の祝福
苦難は神の祝福である。
人生で起こることはすべて神愛だが、苦しみが大きいことほど大きな愛あり大いなる祝福である。
試練によってその人を大きく成長させようとしている。試練が大きければ大きいほど、大きく成長出来るのだから喜んで苦難にぶち当たればいい。どの道、苦難は避けれないのだから。雄々しく立ち向かえばいい。逃げていては何もえられない。
このように思えるかどうかは、その人の心が聖なるものや神に向かっているか、真理のダルマや悟り向かっているかによる。
我欲に縛られて生きている人にとっては苦難はただ苦しいだけ。
聖なる教えを学び、日々修行して生きていると苦しくても喜び。
苦しみに出会っている多くの人が、苦しみから解放されて幸せになってほしい。
でもそれ以上に、みんながそれぞれの苦しみによって成長してほしい。
そして真の幸福へと向かってほしい。
そのためにも日々の努力を倍化して修行しよう。
平等心
すべてを平等に見る心を養おう。
私たちの心はこの二元の世界の中で常に損得や苦楽、愛着と嫌悪などにとらわれている。
そんな不自由な心でどうする。それで本当の愛や慈悲が持てるのか。
それらの自己の観念捨ててて一切を平等に見ることができれば自分自身が幸せである。そして、人をも幸せに出来るだろう。
一切を平等にみる。他者に対する見方、人生に起こるに対する見方、嬉しいことと嫌なこと、利益と被害、苦と楽、あらゆる幸不幸を心において平等にとらえる、これはかなり大変なことだが、これを為さねば真に高い境地には至れない。
だから日々心をチェックして出来る限り平等に思う努力をしよう。
日々の些細な出来事をもすべて自分を引き上げる修行に変えよう。
心を大きく広げ、神に対して、すべての人に対して心を開き、奉仕しよう。
すべては与えられている
必要なものはすべていつも神によって与えられている。
必要なものは必ず与えられる。だから心配することはない。心配したり恐れる必要はないし、心配することは悪いことである。
ただ必要なものとはエゴが必要だと思うもの、エゴを満たすものではなく、神が真に私を幸せにするために必要なものをご用意下さるんだ。いまの時点でその神の御心が理解できなくても、エゴが嫌がっても、与えられたもの喜んで感謝して進んでいこう。そのように生きることによってのみ真の幸福へと至る。
いつも神の御手によって導かれているならなんの恐れがあろうか。