ちょっとずつでも
少しずつでも、できることはやるできだ。
「私はだめだ」「どうせ変わらない」「それくらいのことは、やっても仕方ない」というプライドや卑屈さに陥らず、少しずつでも、泥臭くても、かっこ悪くても、できることはやるべきですね。
少しずつでも、自分を変えようと努力する。それは確かに少しの変化しかもたらさないかもしれない。しかし、それが数ヶ月、一年、数年と積み重ねられるなら、それをやらない人とやる人の差は大きくなる。そしてその蓄積は、あるリミットを超えた段階で大変革をもたらす。
だから少しずつでも、できることは努力していこう。
ヨーガスクールカイラス発行 『松川慧照エッセイ集3』より
エゴの放棄と慈悲
修行とは心の訓練だ。心の変革が伴わない修行には意味がない。
心を集中させ、いろいろな方面から心を変えていく。熱意と誠実さが必要だ。
どのように変えていくか、その根本はエゴの放棄とと慈悲だ。
エゴの放棄と慈悲、これだけが真に自分と周りを幸せにする。
エゴが自分を苦しめる。
慈悲が自分を幸せにする。
これはエゴがあると受け入れ難く、
そうは思えない人も多いだろう。
そう思えるけど、実践できない人も多いだろう。
でも実践しなければ、これもまた意味がなく、もったない。
信頼して進むしか道はないのだ。道の途上エゴの破壊によって苦しみがやってきてもひるんではならない。
他者への慈悲をもって、自己の苦しみは喜びとし、他者の苦しみはじこの苦しみとする。
師や神がいつもついていて、導いてくださる。
エゴの導かれるのではなく、聖なる御手に導かれて、強い心で進め。
今ここ
「今・この瞬間」に意識を集中させるのは
日々全力でいきることが必要だ。
ちゃらんぽらんな意識を排除して
なすべき事を全力でなす習性を身につける。
小さな事にこだわらず、くよくよせず
人の評価を気にすることなく、誠実に生き
成功も失敗も気にしない。
正しい教えを学び、心を教えで満たし
しかしまだ真理を悟っていないがゆえの空しさがある。
このような自分を作り上げつつ
「今・ここ」に意識を集中させるのだ。
そうでないと、「今・ここ」なんていうのも、ただの言葉であり、
余計な想念のひとつに過ぎなくなってしまう。
苦しみも喜びも神の愛としてただ受け入れ
なすべき事を全力でなし
誠実に生きる。そして無常の世の空しさを感じつつ
「今・ここ」に心を集中させたなら
歓喜とともに
世界は広がり
心は広がり
世界からも、非世界からも切り離されたようになる。
終わったことなど気にするな。
来るか来ないかわからない未来のことなど気にするな。
言い訳を用意せず、失敗を気にせず、
今目の前に与えられた神からの課題に全力でぶち当たり
「今・ここ」に心を固定せよ。
慢心が起きそうになったら、自分の器の狭さを思え。
嫉妬が起きそうになったら、自分の器の狭さを思え。
怒りが起きそうになったら、自分の慈愛のなさを思え。
恐怖が起きそうになったら、神の完全な愛を思え。
卑屈さが起きそうになったら、神の完全な愛を思え。
心を低俗な領域に固定せず、教えを学び、誠実に、全力で生きるのだ。
全力で走った後の頭が空っぽになったすがすがしさのように
神に意思を全力で生きる者には、簡単に空性の境地がやってくる。
ヨーガスクールカイラス発行 「松川慧照エッセイ集8」より
切望せよ
切望せよ。奮闘せよ。
心の本性を悟りたいなら。最高の悟りを得たいのなら。真に神を見神したいなら。
そういう思いを持っていても、すぐにこの世のマーヤーにはまって、幻影に惑わされてしまう。
だから日々修行に打ち込む。切望し続け、求め続ける。そうでなければ手に入れることはできない。
この人生はプライドを満たすためにあるのか、
美味しいものを食べるためににあるのか、
快楽に流れ様々な欲望をかなえるためにあるのか、
他者に不満や怒りをぶつけるためにあるのか、
利得、地位や名誉を得るためにあるのか、そんなわけはない。
神を悟るために真理を悟るためにあるのだ。
ならば、誠実に神のみを求め真理のみを求め続けよ。
そうしてのみ神は姿を現してくださる。
邪心を捨てて純粋に聖なるものを求め続けよ。
この世の無常なのもを求めて何の意味があろうか。
人生を神に捧げ、他者の幸せのために捧げ、修行に捧げる。
なんと幸せな人生であろうか。
この世にアラ探しに来たのではない
人は他人の欠点を非難し続けていると、いつの間にかそれらの欠点に染まってしまう。
私たちはこの世にアラ探しに来たのではない。ただ学ぶために来たのだ。
私たちは常に自らに、自分たちは何を学んだか、問わなくてはならない。
そしてできることなら、他人を愛しなさい。そうすればあなた方は、平和と幸福に恵まれるであろう。
スワミ・プレーマナンダ
ヨーガスクール・カイラス発行 『松川慧照エッセイ集8』より