善き心を育てる
日々善い心を育てる。このベクトルが大切。
今までできていただろうか。エゴの悪い心を育ててはいなかっただろうか。嫌悪や執着の心が出てはいなかっただろうか。
これからはいつも誰に対しても優しく思いやりをもって生きよう。善い心をを育もう。
そして真に他に貢献できるようになろう。
瞬間瞬間自覚して 瞬間瞬間全力であれ
心の浄化
どんなに環境をかえても、
他者をコントロールしようとしても、
自分のこを浄化しなければ、本当に幸せになることは出来ない。
外的な状況設定をすることで、
一時的な、幸せっぽい幻影を作り出すことはできるが、
その幻影はもろく、儚く、無常であり、
かえって次の苦しみの原因となるばかり。
自分の心を浄化する以外に道はない。
完全な、壊れることのない幸せ、平安、安らぎをえたいなら、
自分の心を完全に浄化するしかない。
しかしこの事実は、逆に言えば、
自分の心さえ浄化すればいいのだ。
移り変わる現象を、自分のエゴに沿うように変えていくのは大変なことだ。
すべての状況を、エゴの満足するように設定し続けることなど、不可能だ。
しかし自分の心一つを浄化すれば、すべては解決する。
自分の心を浄化しさえすれば、幸せになる。
自分の心を完全に浄化するならば、完全な幸せが得られる。
なんと喜ばしい福音だろう。
これに気づいた人は、
今すぐ意識改革をし、
できるだけ早く、
今すぐに、始めるべきだ。
自己の心の完全浄化の作業を。
そしてその道こそがヨーガであり、仏教であり、
その道こそ、広めなければならない。
ヨーガスクールカイラス発刊『松川慧照エッセイ集11』より
平常心
苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
「平常心!」とよく言いますが、
そもそもここでの緊張や苦しみは、エゴから来ている。
だからまず平常から、普段から
エゴを超えた、真我に集中することだ。
他者のために生きることだ。
神の道具として生きることだ。
なかなか難しくても、そのようにしようとする努力をするべきだ。
そして苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
普段から修習していた
「エゴを超えた、真我に集中すること」
「
苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
「平常心!」とよく言いますが、
そもそもここでの緊張や苦しみは、エゴから来ている。
だからまず平常から、普段から
エゴを超えた、真我に集中することだ。
他のために生きることだ。
神の道具として生きることだ。
なかなか難しくても、そのようにしようとする努力をするべきだ。
そして苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
普段から修習していた
「エゴを超えた、真我に集中すること」
「他のために生きること」
「神の道具として生きること」
を思い出すのだ。
それにより、君の意識は君の中の芯に返り
喜びを持って、緊張なく、なすべき事をなし、
苦境を乗り越えられるだろう。
ヨーガスクールカイラス発行『松川慧照エッセイ集⑧』より
最終の目的
人生の目的は人によってその時々に様々だろう。
私にとってただ一つの最終目的、それは神。
神こそが唯一の実在であり、この世界は神で出来ている。他はすべて幻。
この世界はすべて神、世界は神の愛で満ち満ちている。それが真実。
その真実に辿り着き、実際に体験しなければ意味がない。
それがこの人生の目的、そのために人生のすべてを使おう。
最終的には真に神とひとつになれるように。
神をつかむには、エゴをはなさなければならない。
自己の汚れの浄化しなければならない。汚れた心に神が現れることはできない。
エゴを捨てない限り真に神を悟ることはできない。
神の至福、その大いなる達成のためなら、他の欲望は捨てれるだろう。
人生は短い。いつ終わるかわからない。だから日々目的に向かって前進しよう。
私心なき行為
私心なき行為(カルマヨーガ)を通して、心は浄化される。そして心が清浄になったとき、その中に神叡智(ジュニャーナ)と、強い信仰心(バクティ)が生じる。
神の叡智は、自己の本質そのものである。しかし覆われているため、それはあらわれない。私心なき行為(カルマヨーガ)の目的は、この無知を除去することである。
最初に、あなたは神の叡智を得なくてはならない。神の叡智を得てから、この多様性の世界に戻って来たとき、人はすべてを以前と同じように見るだろうが、もはやその中の何ものにも愛着を覚えない。
神を悟った後では、世界は蜃気楼のようにしか見えない。その中に人を惹きつけるものは何もない。
スワミ・サーラダーナンダ
ヨーガスクールカイラス発行『松川慧照エッセイ集8』より