僕の僕の僕の・・・
神の僕(しもべ)として生きている。
聖師に出会ってから少しずつ深めてきて、まだまだエゴは出るが、
人生を神に捧げて、神のために生きる。神の道具として使っていただく。
神の僕であることに喜びと誇りをもって生きよう。素晴らしいことだ。
イエス様だって「私は人々に仕えるためにきた」とおっしゃっている。
僕というと抵抗あるひともいるだろうが、神の僕でなかったらエゴの僕でありマーヤー(幻影)の僕だ。どっちかなのだから神の僕がいいだろう。
でも僕よりもっとすごいものに気づいてしまった。神の僕の僕になりたい。
そして神の僕の僕のそのまた僕に!
愛を生きる
愛は簡単だけれども、愛をほんとうに生きられるかというと、たいへん難しいのです。
愛をほんとうに生きる、認識するということは、ほんとうの意味において、あなた方が、どんどん、どんどん自分の中に、蓄積した鎖を一本一本はずしていく道かもしれない。
その中において、自分を自由にし、そして自分を裁かず、自分の自己限定を外したとき、はじめてあいてのことの、裁いていた、そのジャッジしていたことをはずしていくことができる、相手のありのままを受け入れることが出来る。
自分を愛せぬ者は、他者を愛することはできないのです。
大天使ラファエル レムリアルネッサンス霊言より
自分の選択を褒める
自分の選択を認める、受け入れる、もう一歩いって褒める
それが幸せというものなのかもしれない。
もちろんここでいいってる自分の選択って自我が問題視したり後悔したりするものについてだ。
私たちはいつも人生の決められたシナリオの中で、その場その場で、限られて選択肢の中でその時できる最良の選択をしてきたんだと。
与えられた条件の中で最良の選択をしたんだと褒めてあげることができるんじゃないか。
それができれば、今ここで怒ってしまったり、ネガティブであったりしても、
いまここでそうであることにジャッジせず、
状況や人に対してもいまここではその体験が書かれたシナリオであり、それしかないんだと知って受け入れ、そのシナリオの中で自分の選択を褒めたらいいじゃないか。
私たちは気づいてないけど、今までさんざん自分を責めてきたんだ。
たとえ現実が自我が望んでいるものと違ってもそれは自分のせいじゃない。
この宇宙はいつも完全、ただそれは自我の視点ではわからない。
念正智は大切だが、気づきは大切だが、責めたり、悔やんだりは違う。
だったらひとまず、いつも自分の選択をほめてみよう。
愛の行い
愛はいくら言葉で聞き、いくら耳で聞いても、愛は学べぬ。
愛は最後、その行いを通し、傷つくほどに、あなた方の同胞を愛し抜くことができたときに、本当に愛を学び得たといえる。
エルランティ レムリアルネッサンス霊言より
愛するためにあるんだよ
すべてのことが、愛するためにあるんだ傷つくの
が嫌だから防御したり逃げたりしてしまうとしても
それは愛するためにあるんだ
私に必要なのはそれを愛すること、まずは、いつもわかっていても
最初から大きな愛を出せるわけじゃない
学びに来ているのだから、出来ないことを出来るようになるために
日常細かいことでイラっとしたいじいじんじゃないか、しょうがなくて
も愛してこう、イラっとした自分も相手ももっと
広い心でいつも
愛を選択することを忘れないで
少しづつ愛のボリュームを上げていけばいいすべては
そのためにあるんだよ
本当は他とは違うけど
愛してくれるためにいてくれるんだよ
理解してるだけじゃしょうがない
実際に愛をいきだよ
この日常を使って