自分の選択を褒める
		
		
			
		自分の選択を認める、受け入れる、もう一歩いって褒める
それが幸せというものなのかもしれない。
もちろんここでいいってる自分の選択って自我が問題視したり後悔したりするものについてだ。
私たちはいつも人生の決められたシナリオの中で、その場その場で、限られて選択肢の中でその時できる最良の選択をしてきたんだと。
与えられた条件の中で最良の選択をしたんだと褒めてあげることができるんじゃないか。
それができれば、今ここで怒ってしまったり、ネガティブであったりしても、
いまここでそうであることにジャッジせず、
状況や人に対してもいまここではその体験が書かれたシナリオであり、それしかないんだと知って受け入れ、そのシナリオの中で自分の選択を褒めたらいいじゃないか。
私たちは気づいてないけど、今までさんざん自分を責めてきたんだ。
たとえ現実が自我が望んでいるものと違ってもそれは自分のせいじゃない。
この宇宙はいつも完全、ただそれは自我の視点ではわからない。
念正智は大切だが、気づきは大切だが、責めたり、悔やんだりは違う。
だったらひとまず、いつも自分の選択をほめてみよう。		
	 
		
		
		
			
愛の行い
		
		
			
		愛はいくら言葉で聞き、いくら耳で聞いても、愛は学べぬ。
愛は最後、その行いを通し、傷つくほどに、あなた方の同胞を愛し抜くことができたときに、本当に愛を学び得たといえる。
エルランティ  レムリアルネッサンス霊言より		
	 
		
		
		
			
愛するためにあるんだよ
		
		
			
		すべてのことが、愛するためにあるんだ傷つくの
が嫌だから防御したり逃げたりしてしまうとしても
それは愛するためにあるんだ
私に必要なのはそれを愛すること、まずは、いつもわかっていても
最初から大きな愛を出せるわけじゃない
学びに来ているのだから、出来ないことを出来るようになるために
日常細かいことでイラっとしたいじいじんじゃないか、しょうがなくて
も愛してこう、イラっとした自分も相手ももっと
広い心でいつも
愛を選択することを忘れないで
少しづつ愛のボリュームを上げていけばいいすべては
そのためにあるんだよ
本当は他とは違うけど
愛してくれるためにいてくれるんだよ
理解してるだけじゃしょうがない
実際に愛をいきだよ
この日常を使って		
	 
		
		
		
			
神はすぐそばに
		
		
			
		神はすぐそばにいる
すべての粒子の中にも居られ、ハートの中にもいる
忘れてはいけない
私たちはいつも自我に先導されて、神なしでやろうとする
自分でやろうとしない
神なしでやらない
神は私たちが求めた分だけ近づいてくださる
いつもそばにいてもらえるように
神の導きで神の仕事ができるように
それには神を想う気持ちが重要だ
		
	 
		
		
		
			
人は過ちを繰り返す
		
		
			
		人は過ちを繰り返す。
人は常に過ちをおかすものです。
昔から世界中でこのような言葉があります。
人は精神的に目覚め、真実の自己に気づき、その源である神との永遠の関係に気づき、そこを生きはじめない限りは、不完全でその感覚も制限されたものです。
私たちはこの制限の世界で制限を使って学んでいるんです。
ならば、人の過ちを許し、自分の過ちも許せるはず。
人はが過ちを犯すのは常。そうやってお互いに魂の学びに役立っているんだから。