「私に」起きているのではなく、「私のために」起きている
出来事は、私に起きているんじゃない。私のためにおきている。これがわかると
胸の奥がすーっと軽くなるような、大きな安心感に包まれます。
今までも頭では分かっていたはずだが、改めて身体のすみずみにまでじんわりと染み渡ってきたのです。
「なぜ、こんなことが私に起こるんだろう?」
そう思ってしまうとき、私たちはどうしても出来事に翻弄される存在になってしまいます。
でも、視点をほんの少し変えてみる。
「これは、私を困らせるために起きているのではない」
「私の学びのために、私の経験のために、私のために起きているんだ」
そう思えた瞬間、目の前の景色が一変します。
今ここで出会っている出来事も、感情の揺れも、すべては自分が今学ぶべきことを学ぶために、完璧なタイミングで用意されたもの。
宇宙の大きな流れや、温かい配慮のようなものが、必要な経験をただ静かに差し出してくれているだけなんだと。
トラブルに見えることも、遠回りに思えることも、すべては自分という存在を深く育むためのギフト。
「なんだ、最初から何ひとつ滞っていなかったんだ」
そう気づくだけで、背負っていた肩の荷がふっと下りて、呼吸がぐっと深くなります。
知っているつもりだった大切なこと。
こうして人生の節目ごとに何度でも出会い直し、深く腑に落ちていくプロセスそのものが、愛おしい学びの時間なのかもしれません。
今日という日に、この温かい気づきを分かち合えることに、心から感謝を込めて。
そうなっているものはそうなっている
最近、つくづく思うことがあります。
この世界で起きていること、心の中に現れる出来事。 本当はただ、「今、そうなっているものは、そうなっている」。本当にそれだけなんだな、と。
もちろん、いま人生でとても大変な渦中にいる方もいらっしゃるとおもいます。「そうなっているものは、そうなっている 」ではすまないということもわかります。それぞれに切実な場面があり、色々な思いを抱えて生きている。 どんな人の人生にも、それぞれのストーリー(物語)があります。 そのストーリー自体は、どれも尊く、とても美しいものです。でも、そうなっているストーリーなんです。
私たちが苦しさを感じるとき、そこには「抵抗」がある。
「こうであってはならない」 「どうしてこうなってしまったのか」 「なんとかして変えなければ」
そうやって目の前の現実に逆らおうと、ギュッと力を込めて抗えば抗うほど、心はどんどん苦しくなってしまいます。
でもね、本当は何もコントロールしようとしなくていいんです。 無理に意味づけをしたり、正そうとしたり、抵抗したりしなくてもいい。
ただ「そうなっているんだな」と、起きていることをそのままにしてあげる。
握りしめていた拳をふっと解いて、抵抗するのをやめた瞬間、そこには何ものにも脅かされない静かな安らぎが広がっています。
今、もし心が苦しいと感じている方がいたら。 「何もコントロールしなくていいんだよ」「抗わなくていいんだよ」というこの感覚が、少しでも肩の荷を降ろすきっかけになれば嬉しいです。
愛と光が溢れた時間、オームチャンティング
この度、オームチャンティングのオーガナイザーの祝福を頂き、
念願だった「オームチャンティング」を開催いたしました。
今回は初参加の方も含め、6名の大切な皆さまが集まってくださいました。この場を一緒につくってくださったことに、感謝の気持ちでいっぱいです。
チャンティングが始まると、パラマハンサ・ヴィシュワナンダ大師とマハヴァター・ババジという偉大なるマスターたちの恩寵のエネルギーが場に満ち、神々
からの祝福も感じました。
その聖なる場のおかげで深い浄化が起こり、参加されたお一人おひとりの内側にある「愛」や「光」が静かに目覚め、互いに共鳴し合っている……そんな圧倒されるほど美しい光景を見せていただきました。
「ああ、私たちは誰もがみんな、神の子であり、光そのものなんだ」
そのことを深く再確認し、胸が熱くなるほどの感動と、言葉にできない感謝が込み上げてきました。
マスターたちの神聖な波動とあたたかなエネルギーに導かれ、本来の光り輝く自分自身を思い出すことができる――その奇跡のような時間に、ただただ感動しています。
ご参加くださった皆さま、そしてこの素晴らしい機会と繋がりに、心からの感謝を捧げます。
実践奇跡のコース 私は体ではない
肉体そのものを「自分自身(本質)」だと勘違いすると、肉体を維持し、守り、飾ることが人生の「目的」になってしまいます。
若さ、健康、容姿、安全、快楽などを「失わないように」と常に考え、
他者の肉体と自分を比較して、勝った負けた、羨ましい、不快だと一喜一憂する……そんなことを繰り返し、いつの間にか執着をさらに増してしまっている。
そして、病気や老い、死を「自分の敗北や存在の消滅」のように感じて強い恐怖を抱く。
肉体という「変わりゆく脆いもの」を守ること自体を人生の目的にしてしまうと、心は常に緊張し、恐れから解放されることがありません。
奇跡のコースでは肉体を「目的」ではなく、「手段」としてみます。
あなたの本当の正体は「傷つくことのない光(スピリット)」であり、肉体は「この夢の世界で愛や光を表現するために、一時的に着ている服(または通信ツール)」に過ぎないと見るのが、肉体を「手段」にする生き方です。
例えるなら、スマホは大切な連絡(愛の伝達)をするための「手段」であって、スマホ本体が「あなた」ではありませんよね。バッテリーが減ったら充電し、壊れたら修理しますが、スマホの不調で自分の存在価値が脅かされることはありません。
愛と許しを届ける「道具」になる
肉体という目に見える形を使って、目の前の人に優しい言葉をかける、微笑む、手差し伸べる、静かに寄り添う。そうやって「聖霊の愛(真実)をこの世界に表現するためのツール」として肉体を使います。
目的と手段がひっくり返るとどうなるか?
肉体を「目的」から「手段」へと一歩ひくだけで、世界の見え方がガラリと変わります。
「身体の調子が悪いな」と思っても、「道具のメンテナンスが必要だな」と穏やかに手入れをするだけで、魂まで傷ついたり落ち込んだりしなくなります。
人間関係も「肉体という手段を通して、お互いの内側にあるひとつの光(スピリット)を確かめ合う時間」になります。
あなたは肉体そのものではなく、肉体という楽器を使って、この世界に愛と平安の音色を響かせている演奏家(スピリット)です。
「あ、また肉体を目的(自分そのもの)にして守ろうと焦っていたな」と気づいたら、ただ心の中でこう思い出してください。
「肉体は私自身ではなく、愛を表現するためのただの手段(道具)です。聖霊、この道具を今日どう使えばいいか、あなたに委ねます。」
これだけで、肉体という狭い枠組みから解き放たれ、本来の広大な平安へと戻ることができます。
実践奇跡のコース 流しのコップの山と、世界を救う小さな許し
今日は不平不満に気づく一日にしようと思い
朝、キッチンに立った瞬間、流しに積み重なった家族のコップ。
「またこんなに……」「なんで私が片付けなきゃいけないの?」
不平不満が早速出たー
でもこれってきっと無意識で毎回思ってるかも………
「めんどくさい」「私ばっかり」
以前の私は、その思いをみつけたとしても必死で抑え込もうとするか、心の中で家族を裁判にかけるのに忙しくしていました。でも、最近はちょっと違う実験をしています。
この「イラッとした瞬間」こそが、私にとってに「許しの機会」、「世界を救う練習」なんだと気づいたからです。
「許し」とは、とての簡単にいうと自分の見方を聖霊に手放すこと
「私が世界を救う」なんて聞くと、特別な話のように思えるかもしれません。でも、私たちの目の前に広がっている世界は、すべて自分自身の心の映し出し(スクリーンの映像)です。
画面の映像をいくら拭き取ろうとしても、映写機(自分の心)の中にある「攻撃」や「不満」の手放しが進まなければ、同じようなイライラは形を変えて現れ続けます。
だからこそ、コップを見て「なんで私が」と思ったその瞬間に、こうやって心の中でつぶやいてみます。
「あ、また『私だけが被害者』っていうエゴのメガネをかけてたな」
「私は何も分かっていないから、このイライラも、間違った見方も、全部丸ごと聖霊にお預けします」
やり方は本当にこれだけです。
正しく委ねようと深刻になる必要もありません。「あーもう、全部まとめて持っていってください!」と、大雑把に段ボールに入れて渡してしまうくらいの感覚で十分なんです。
あなたにしか救えない世界がある
あなたの見ている現実を、愛と平和の視点に書き換えられるのは、その世界を認識している「あなた」しかいません。
「なんで私が」という小さな不満に気づき、それを手放して心がホッと温かくなるとき。
それは、あなた一人だけの解放にとどまらず、深いところでつながっている世界全体をちょっとだけ軽やかにしています。
毎日の面倒な家事も、本当はあなたを苦しめるためにあるのではなく、「ここにまだ手放せる誤解があるよ」と教えてくれる愛の機会。
今日も不満が出てきたら、「あ、世界を救うチャンスが来たな」とニッコリ笑って、どんどん聖霊の足元にポイポイ渡していきましょう。