心を作り変える
仏陀や過去の偉大な成就者たちのの教えによって鍛え、作り変えていくことが重要です。
心の訓練の修行が、私たちの思考に根本的な変化をもたらし生き方を変化させていきます。
主には自己の放棄ですが、これは自己執着とそれにもとづく自己愛着を克服していくことです。
自己愛着が他者の気持ちを理解する妨げとなり,私たちのものの見方を、偏狭なエゴの視点に押し込めてしまいます。このものの見方を変化させることにより、普通私たちが持っている利己的な人生観を利他的なものに変えようとするのが正しい心訓練です。
常に、ポジティブな態度、思考、ものに見方を育て、ネガティブなものを弱めていく。
愛と慈悲を育てていく。
これは日々の実践と努力がなければ達成できないことでしょう。
しかし達成されれば、幸せで満ち足りた存在なるでしょう。
心の浄化
どんなに環境をかえても、
他者をコントロールしようとしても、
自分のこを浄化しなければ、本当に幸せになることは出来ない。
外的な状況設定をすることで、
一時的な、幸せっぽい幻影を作り出すことはできるが、
その幻影はもろく、儚く、無常であり、
かえって次の苦しみの原因となるばかり。
自分の心を浄化する以外に道はない。
完全な、壊れることのない幸せ、平安、安らぎをえたいなら、
自分の心を完全に浄化するしかない。
しかしこの事実は、逆に言えば、
自分の心さえ浄化すればいいのだ。
移り変わる現象を、自分のエゴに沿うように変えていくのは大変なことだ。
すべての状況を、エゴの満足するように設定し続けることなど、不可能だ。
しかし自分の心一つを浄化すれば、すべては解決する。
自分の心を浄化しさえすれば、幸せになる。
自分の心を完全に浄化するならば、完全な幸せが得られる。
なんと喜ばしい福音だろう。
これに気づいた人は、
今すぐ意識改革をし、
できるだけ早く、
今すぐに、始めるべきだ。
自己の心の完全浄化の作業を。
そしてその道こそがヨーガであり、仏教であり、
その道こそ、広めなければならない。
ヨーガスクールカイラス発刊『松川慧照エッセイ集11』より
エゴの放棄と慈悲
修行とは心の訓練だ。心の変革が伴わない修行には意味がない。
心を集中させ、いろいろな方面から心を変えていく。熱意と誠実さが必要だ。
どのように変えていくか、その根本はエゴの放棄とと慈悲だ。
エゴの放棄と慈悲、これだけが真に自分と周りを幸せにする。
エゴが自分を苦しめる。
慈悲が自分を幸せにする。
これはエゴがあると受け入れ難く、
そうは思えない人も多いだろう。
そう思えるけど、実践できない人も多いだろう。
でも実践しなければ、これもまた意味がなく、もったない。
信頼して進むしか道はないのだ。道の途上エゴの破壊によって苦しみがやってきてもひるんではならない。
他者への慈悲をもって、自己の苦しみは喜びとし、他者の苦しみはじこの苦しみとする。
師や神がいつもついていて、導いてくださる。
エゴの導かれるのではなく、聖なる御手に導かれて、強い心で進め。
与える側になる
『与える側の人間になりなさい』
聖者達はこのように教えてくださる。
これは実践が大切でとても重要な教えだ。
与える側の人間である。常に。
そのためには常に他者の利益を考え、自分が他者に何を与えられるだろうかと考えて生きる。
そうすれば、他者に何かを与える機会が来た時に喜んで与えることができるだろう。
エゴは己の貪りにより与えることを躊躇するが、与える実践によってのみ自己は真に幸福になれるのだとエゴをなだめて実践し続ける。そのうち与えることが喜びになり、自然に与えれるようになっていく。
自分のものなどもともと何もない。私の物もこの体もすべて神によって与えらえたもの。すなわち神のものであり、一切衆生のもの。それは与えるために与えられたものなのだから。
常に心にこの思いを保ち、他者の利益となれますように。
平等心
すべてを平等に見る心を養おう。
私たちの心はこの二元の世界の中で常に損得や苦楽、愛着と嫌悪などにとらわれている。
そんな不自由な心でどうする。それで本当の愛や慈悲が持てるのか。
それらの自己の観念捨ててて一切を平等に見ることができれば自分自身が幸せである。そして、人をも幸せに出来るだろう。
一切を平等にみる。他者に対する見方、人生に起こるに対する見方、嬉しいことと嫌なこと、利益と被害、苦と楽、あらゆる幸不幸を心において平等にとらえる、これはかなり大変なことだが、これを為さねば真に高い境地には至れない。
だから日々心をチェックして出来る限り平等に思う努力をしよう。
日々の些細な出来事をもすべて自分を引き上げる修行に変えよう。
心を大きく広げ、神に対して、すべての人に対して心を開き、奉仕しよう。