ゆるしのレッスン7
いつでもどこでも神と一緒
今日は一日、「いつでもどこでも神と一緒」という言葉を心にとどめます。
自分と神を隔てるものは何もないと本当に信じたとき、すべてのものとの一体感とひとつに結ばれた心しか存在しません。
すると、神をただ信じるというのではなく、いつでもどこでも神が自分とともにあることがわかるようになります。
神に近づくゆるしのレッスンのひとつは、私たちは分離した存在ではなく、大いなる全体を構成する一部なのだと、思い切ってしんじることです。
今まで信じていたものに固執せず、私たちは一人ではなく、いつも神と神の愛とともにあると信じれば、分離感は自然に消えて、生まれながらの権利である「すべてのものとの一体感」を味わえるでしょう。
サンマーク出版「ゆるしのレッスン」より
今日のレッスンは私の大好きなレッスンで、とても重要なレッスンだと思います。
私は長い間、神や宇宙、故郷との繋がりを絶たれて分離されてきたと思っていましたが、
一度も切り離されたことなどなく、私が繋がりを感じられなくなっていただけだといつしか気づきました。
自ら神から遠ざかっていた・・・。
もともと繋がっている、もともとひとつなので、繋がっていくのは簡単です。
マインドを離れてハートのなかに入っていけば、すべてと繋がっています。
私も毎日マインドから離れてハートに降りていく練習をしています。
そこにはいつも神が存在します。私自身、真我=神我ですね。
そして目覚めた私です。
みんな、同じ神聖な存在です!
ゆるしのレッスン6
私の神も残酷ではない
私は今日、愛と優しさに満ちた思いだけをもつことによって、神を心にとどめておきます。
今日、私は他人を傷つける思いを抱かず、他人や自分に残酷な思いを持たないことに心を集中し、責任をもちます。
神も私も残酷ではないと思いだせば、私はこのレッスンを実践出来ます。
ジェラルド・ジャンポルスキー著「ゆるしのレッスン」より
私も人の言動に怒って他人を裁く思いをもつことがあります。自分にとって理不尽なことや他人の攻撃によって自分が怒りの思いを持ったわけですが、無意識の反応であれ自分が怒りを選んでいるのです。
自分の思いをいつも自分でえらんでいる。そして意識的に選ぶことが出来ると知って、自分の思いに責任をもつ決心をすることが出来ます。
神・宇宙の源・私たちの根源は私たちの想像を超えて愛に溢れています。決して残酷ではないし、私たちを罰することもありません。
ですから、自分自身を裁くことをやめましょう。
エゴの声に耳を傾けるのをやめて、神の声・ハイヤーセルフの声に耳を傾けることを癖づけることもできます。
毎回、ゆるしのレッスンについて書いていると、真面目な内容に思えますが、大切なのは真面目さではなく、軽やかさ、単純さ、子供のような無邪気さです。
どうか、それらが引き出されますように。
ゆるしのレッスン5
毎日、アセンションの波が押し寄せていますね。
内側での気づきや意識の変容、そして外側では関わり合いの変容や予想外の出来事、肉体の不調なども体験した方、している方が多いと思います。すべては必要な体験、大いなる自己が目的を遂げるために必要なものです。出来ればそれらすべてに感謝を抱いていきたいですね。
大きな視点でみればすべては良くなる方向へ進んでいます。
私達は素晴らしい変化の時期を迎えています。
そんな時に、ある意味地味にゆるしのレッスンをまたはじめた自分を不思議に感じます。でもこれも意味があるのでしょうね。
前置きが長くなってすいません。
ゆるしのレッスン5
私は愛そのものであり、身を守る必要はない。
人々が攻撃か防御しかないと信じるとき、私はそれを超えた世界をみることが出来ますように。
攻撃してきた相手から自分を守ろうとすれば、私も相手を攻撃することになるのだと、思いだせるようにしてください。
今日一日、無防備なまま過ごし、皆が私の純粋さを感じることが出来ますように。
自分の本質が愛だと理解しているとき、本当の意味で誰からも傷つけられはしないということ、私が思いだせるようにして下さい。
今日一日、攻撃もせず、防御もせず、愛と無防備の道を歩みます。
そして自分の心も含め、すべての人の心をやさしく抱きしめましょう。
サンマーク出版「ゆるしのレッスン」より
無防備こそ最大の防御とはよく言ったものです。なかなか実践できないことかもしれませんが、やってみると楽です。
いつも愛に還るだけ。
私たちは決して傷つけられることのないスピリットです。そして愛の存在です。愛はすべてを抱擁することができます。
相手が変わらなくても自分が実践することです。攻撃を恐れているよりも自分が楽で、自分を認めることが出来ます。
自分にとって難しく思えることをやさしくやってみましょう。
相手も愛で出来ています。すべては愛で出来ています。
この世界で体験するすべてに感謝します。
お付き合い頂きありがとうございます。
今日もたくさんの光を受け取ってください。
ゆるしのレッスン4
出会う人すべては、忍耐について教えてくれる先生
今日は、神と同じように私にも無限の忍耐心があることを思いだす日にしましょう。忍耐心は愛の表現のひとつであることを思いだします。神は何分我慢すべきかストップウォッチで計ったりしないように、私もそうするのはやめます。
私達はあらゆる人間関係から、神について学ぶことが出来ます。自分の苛立ちを人間関係に投影し、他人にイライラしたり、責めたり、裁いたりすることはよくあります。
他人に忍耐強くなるための第一歩は、自分自身に対してなぜ忍耐強くないか、その理由を探ることかもしれません。
忍耐と学ぶことは神への近道の一つで日常生活の様々な場面で練習できます。
たとえば、急いでいるときに、前の車がのろのろ運転しているとイライラし、腹が立ったりしがちです。けれどもそんなときは、「前の車は忍耐を教えてくれる先生なんだ」と考えるのです。パートナーが自分の頼んだことを忘れた時も「忍耐の大切さを教えてくれている」と考えて愛することは出来ますし、子供がひどいいたずらをしたときも、怒鳴りつけたい衝動を抑えて「この子は忍耐を教えてくれる先生なんだ」と思ってみるのです。
スーパーのレジや銀行で長い行列が出来たらレジや窓口の人、そして並んでいる人たちを愛する機会だと考えてみましょう。
サンマーク出版「ゆるしのレッスン」より
このレッスンを実践していると、いかに日常で私にレッスンの機会を与えられているかがよくわかります。
「この人は私に忍耐を教えてくれる先生だ」と1日に何回も言いました。
誤解して頂きたくないのは、忍耐は我慢することではありません。我慢は自分の思いを押し込めること、忍耐は心を開き、心を変革し、心を広げることだと思います。
神は無限の忍耐をもっている・・・神は愛そのものであり、無限に広い心ということです。
そして私達も神と同じもので出来ています。自我・エゴから離れるとき、私達の内に輝く神の光、愛の光を見ることが出来ます。
日常で出会う「忍耐を教えてくれる出来事」「忍耐の大切さを教えてくれる先生」達も、私が私自身の愛に目覚めるために立ち現れています。すべての機会を学びとして生かすことができれば、どんどんと加速してあなた本来の無限の自己へと還っていきます。
沙羅の樹より 愛を込めて
ゆるしのレッスン3
「私は肉体を超えた存在かもしれない」と考えてみる。
今日、私は自分に関する思い込みのすべてを手放す努力をします。私にとっての真実を理性や五感だけで決めつけないという選択をします。
私は今日、真実とは測ることも見ることもさわることも味わうこともにおいを嗅ぐことも出来ないもので、物質としての形を持たないものだとと考えてみます。
私の本当の姿はこの肉体ではなく、不変の愛かもしれません。
変化し、うつろう肉体とは違って、愛は不変であり、またそれこそが私達の真の現実であることを忘れずにいられますように。
「私は神と呼ばれる存在によって創造されたのかもしれない」と考えてみましょう。
「私は肉体に仮住まいしている、愛に満ちた形のないスピリチュアルな存在かもしれない」と考えてみましょう。
サンマーク出版 「ゆるしのレッスン」より
自分の本来の姿を思いだす
本来の自分を思いだす
自分が何者かを思いだす
これは人生の目的であり、これがすべてだと私は時折思います。
思いだすと言っているのは、もともと知っていたからですよね。でも私たちは忘れてしまった・・・
何を言っているのかと思われる方もあるでしょうが、
自分の人生です。何かを手に入れたり、夢を実現したり出来ても自分が何者かを知らないままでは意味がないのでは?と私は思います。
人生の目的も、何を考えどう生きるかも人それぞれ自由です。
「自分の本当の姿が、不変の愛」だったとしたら・・・
どんなふうに生きれるでしょう?
12月に入って、私には空や山、ちょっとした街路樹など、すべての自然が輝いて見えます。
曇りの日も光を放っています。愛を放っています。
美しいと思ってみている私も、愛を放っています。放つと意識しているわけではありません。
一日を通してちょこちょこエゴは出ますが、構わない。
一日の終わりにすべてを手放せばよいのです。
そして自分が愛であることを思いだして眠りにつくと、翌日また世界が輝いて見えます。
たくさんの光をありがとうございます。いつもそう思います。