決して心を変えないようにしよう
ビックたちよ、他の者たちが君たちに、ふさわしいときに、あるいはふさわしくないときに語るであろう。
真実によって、あるいは偽って語るであろう。
柔和に,あるいは乱暴に語るであろう。
利益を伴って,あるいは利益を伴わずに語るであろう。
慈愛の心をもち、あるいは怒りの心を持って語るであろう。
そこでも、いいかね、ビックたちよ。きみたちは次のように学ぶべきである。すなわち、我々の心を決して変えないようにしよう。
悪い言葉を吐かないようにしよう。
また、相手を思いやり、慈愛の心を持ち、怒りの心を持たないようにしよう。
そして、その人に対する慈悲の思いで満たそう。
また慈愛の対象である一切の世界を、広く、大きく、無限で、恨みなく、怒りのない慈悲の思いで満たそう、と。
ビックたちよ、まさにこのように、君たちは学ぶべきである。
仏陀釈迦牟尼
ヨガスクールカイラス発行『松川慧照エッセイ集』より
立ち上がれ
“すべての力はあなたの内にある。あなたにできないことはない。
これを信じなさい。自分は弱いなどということを信じるな。
立ち上がれ。自分の内にある神性をあらわせ。”
“存在のすべての秘密は,恐れがないということである。
自分がどうなるかなど、絶対に恐れるな”
スワミ・ヴィヴェーカナンダ
心の浄化
心は庭のようなもにである。
庭の土を耕し、肥料をやり、雑草を取り除き、植物に水をやることによって、よい花と果実を収穫することができる。
同様に、欲望、怒り、貪欲、誤謬見解、迷妄、プライドのような心の不純物を取り除き、「常に神を思うこと」という水を与えることによって、心の庭に献身の花を咲かせることができる。
雑草は雨季に成長し、夏になると消える。しかし雑草の根は地面の下に残っている。そして水がそそがれるとすぐに再び雑草は外に目を出す。
同様に
心の波が表面化し、そして消えたとしても、それは微細な種の状態でサンスカーラに内在され、そして内的、外的な刺激により再び表面化する。
心の庭が綺麗であるとき、雑草がなく、心が純粋であるとき、あなたは素晴らしい瞑想の果実を得ることができる。
したがって、まず最初に、心の不純物を取り除くことから始めなさい。
スワミ,シヴァーナンダ (ヨガスクールカイラス日々修習する聖者の知恵より)
平常心
苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
「平常心!」とよく言いますが、
そもそもここでの緊張や苦しみは、エゴから来ている。
だからまず平常から、普段から
エゴを超えた、真我に集中することだ。
他者のために生きることだ。
神の道具として生きることだ。
なかなか難しくても、そのようにしようとする努力をするべきだ。
そして苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
普段から修習していた
「エゴを超えた、真我に集中すること」
「
苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
「平常心!」とよく言いますが、
そもそもここでの緊張や苦しみは、エゴから来ている。
だからまず平常から、普段から
エゴを超えた、真我に集中することだ。
他のために生きることだ。
神の道具として生きることだ。
なかなか難しくても、そのようにしようとする努力をするべきだ。
そして苦境に陥ったとき、
あるいは、重要なことをおこなうために緊張するとき、
普段から修習していた
「エゴを超えた、真我に集中すること」
「他のために生きること」
「神の道具として生きること」
を思い出すのだ。
それにより、君の意識は君の中の芯に返り
喜びを持って、緊張なく、なすべき事をなし、
苦境を乗り越えられるだろう。
ヨーガスクールカイラス発行『松川慧照エッセイ集⑧』より
私心なき行為
私心なき行為(カルマヨーガ)を通して、心は浄化される。そして心が清浄になったとき、その中に神叡智(ジュニャーナ)と、強い信仰心(バクティ)が生じる。
神の叡智は、自己の本質そのものである。しかし覆われているため、それはあらわれない。私心なき行為(カルマヨーガ)の目的は、この無知を除去することである。
最初に、あなたは神の叡智を得なくてはならない。神の叡智を得てから、この多様性の世界に戻って来たとき、人はすべてを以前と同じように見るだろうが、もはやその中の何ものにも愛着を覚えない。
神を悟った後では、世界は蜃気楼のようにしか見えない。その中に人を惹きつけるものは何もない。
スワミ・サーラダーナンダ
ヨーガスクールカイラス発行『松川慧照エッセイ集8』より